駒川はかつて河内長野の天野山を源流(天野川)、狭山市の狭山池からは天道川(西除川)として現在の駒川と今川に流れていました。
一方、石川(柏原市)の合流点から北西に流れる旧大和川(玉串川、長瀬川、平野川)の流域の度々の堤防決壊による洪水被害に、1704年公儀普請(幕府の費用負担)で大和川を西に堺浦(堺市)まで約14kmの付け替え工事が行われます。
天道川はこの新大和川によって分断されて以来、西除川(にしよけがわ)として堺市浅香山町で大和川の左岸に合流されます。
また、5世紀に築造され古代の依網池(よさみ池/住吉区庭井)も大和川により分断・縮小された。 駒川・今川も大和川の北側に残されて水源として依網池の水を源流としていたが、昭和40年頃には徐々に埋め立てられてその姿を消し、水源としての機能を失っていきました。
その後、水源を失い生活用の排水で「どぶ川」と化した河川に平野下水処理場で高度処理された水が上流に送水され、これにより綺麗になった川には鯉の泳ぐのが見られるようになりました。この高度処理水を源流として駒川と今川は生野区の今林で東から流れてくる平野川と更に合流して北上、大阪城の北側で第二寝屋川から大川(旧淀川)に流れ込んでいます。
『依網池は灌漑用の溜池として築造は日本書紀・崇神天皇62年の条に「冬十月、依網池を造る」と記録が、また『古事記』崇神天皇段に「又是の御世に、依網池を作り」とあります。そして仁徳天皇、推古天皇の時にも築造の記述が見られます。依網池は我孫子・苅田・庭井から堺市常盤町にまたがる古代の巨大な人工池で、面積は30〜60haと推定され、この地域は屯倉(大和朝廷の直轄地)となっており、阿弭古が管理していた』