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 ◆庚申街道
    四天王寺庚申堂【305】

 
令和5年2月21日(火)
ハイク登山 エッセイ 旅行日記 短編小説 詩・短歌 スキー紀行 写  真
● 庚申堂〜桃ヶ池公園〜中井神社〜中臣須牟地神社〜明治橋(Jan.2023)
 001.JPG大阪の旧街道の一つに庚申街道(こうしんかいどう)があります。 
四天王寺南大門を起点として南にある四天王寺庚申堂から南に歩き、現在の平野区長吉川辺町の古市街道と合流するまでの大阪の旧街道です。 今は道路が整備されて旧街道は不明の所もあり、古地図の集落を参考に歩いて来ました。

 四天王寺は聖徳太子が西暦593年推古天皇元年(日本書紀)に建立された仏教の総本山で今回は四天王寺にお参りしてから庚申街道を歩きます。
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 南大門から南に280mにある四天王寺庚申堂は、日本の庚申信仰発祥の地といわれ、中国の道教が説く三尸(さんし)説に由来し、庚申堂の縁起では本尊として青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)を祀ります。
 
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 庚申堂の縁起では奈良時代、疫病が流行り庚申の年の正月7日庚申の刻に青面金剛童子が現れ、祀ると疫病が退散したという伝承から庚申の日に青面金剛童子に祈れば願いがかなうという信仰が始まります。
この道教の説く三尸説(さんしせつ)に仏教、神道、修験道や民間信仰などが結びついて庚申信仰(こうしんしんこう)が生まれました。この庚申信仰は平安時代の貴族から広まり江戸時代には庶民にも盛んになり、明治時代までは隆盛だったので、現在でも各地に庚申塔、庚申塚が残されています。
  ●参 考 庚申信仰  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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  現在、四天王寺庚申堂(青面金剛童子)、京都八坂庚申堂(青面金剛)、入谷庚申堂(小野照崎神社の庚申塚のみ)が日本三庚申堂と呼ばれています。
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 四天王寺庚申堂を過ぎ、旧街道と思われる南門筋を南下、JR天王寺駅の線路下を渡り、さらに並行するあびこ筋、近鉄阿部野橋駅(庚申口)の地下構内を南下します。
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 地上(松崎口)に出てからは細い旧道(庚申街道)、天王寺予備校前を通ります。やがて辻調理師専門学校、広い車道(鶴橋天王寺線)にでると信号がある。
  ●補 則 この信号を渡って区画された道路を南下、東側には我孫子筋が並行している。高速道路をくぐり、苗代田公園横を南に長居までGoogle地図には庚申街道として記載されている)
 今回は広い車道(鶴橋天王寺線)東に歩くと天王寺消防署。この辺りは古道が旧集落の面影が残しています。 町の中を少し散策します。東にあびこ筋を渡って大阪市立工芸高等学校前からあびこ筋を離れて東南方へ南下、この一帯も旧集落の面影を残す古道があります。 東南に文の里から桃ヶ池公園の北端に出る。
  ●参 考 この辺りで「庚申街道」の終点とする説がある。
 
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 此処からは東に歩き旧田辺村を通りJR阪和線、近鉄南大阪線、今川公園と歩きます。
 
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 その後、南下する今川沿いと平行する庚申街道を歩き阪神高速道路「旧南海平野線:昭和55年(1980年)廃線の旧中野駅付近」を南に旧中野村の中井神社がある。

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  ●中井神社
 『摂津志』には田辺宿禰が南田辺村に天穂日命を祀ったと言われる田辺西神祠を山阪明神(明治5年山坂神社に改む)と、中野村(現在の針中野付近)には田辺東神祠を天王と称す、とあり「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」と呼ばれていた。明治初頭には中井神社として主祭神・素盞嗚尊を祀る。 
  ●『摂津志』江戸時代に編纂された畿内5か国の地誌の一誌
  ●神祠(しんし):神を祭った建物、神のやしろ。 
 
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● 参考(地図)
1923年(大正12年):大阪鉄道(現・近鉄南大阪線)開通と同時に針中野駅開設。
1928年(昭和3年)航空写真:東田辺は近村地域の田畑で住宅は少なく東田辺小学校は1942年に開校。
1933年(昭和8年):南海電気鉄道平野線・駒川町停留場開業(平野線廃止1980年11月)

 そして旧中野駅から「はりみち」と中野鍼灸院(中野降天鍼療院)への石標を確認して、針中野(旧中野村)、湯里(旧湯谷嶋村)の街道を、さらに南百済小学校に南下します。 古道も残っていて道は狭く行き止まりもあります。 今は現代の建物が密集して並行して区画整備された道路もあります。
 
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 この辺りは明治22年に町村制が施行され、砂子村、中野村、湯谷島村、鷹合村の集落が合併して旧南百済村が発足しました。
 
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 所々に昔の旧集落跡と思われる古道が残っています。 現代から取り残された家並みが、いにしえの面影を想像され、わずかながらタイムスリップした感覚を感じられます。 それ以外のほとんどの道路は整備されて幾何学的な建物や道路が無機質に並びます。都会の中を走る昔の庚申街道は交通の発展と共に時代の彼方に消えていきます。
 今回は今に残された集落跡と思われる地を訪ねて、地名と古地図を参考に歩いて来ました。 昔は建物も少なく雑木林や田畑、河川、神社の周りを囲む鎮守の森を想像しながら見通しの良かったと思われる古道をハイキングしてきました。 駒川・針中野周辺は私の誕生した所で昭和の初めは田畑も多く見通しも良く、駒川や今川の河川には鮒やドジョウ、そして蝶々やトンボが飛び交う所でした。

 針中野からは旧湯谷島村、旧鷹合村です。
 この後、さらに南下、この辺りは明治の南百済村で区画整理された道路の裏道に入ると細く曲がった道が昔の集落を想像させます。 011.JPG湯里を過ぎると東西に走る幹線道路・南港通りです。 

 南港通りに矢田北小学校があり、旧矢田村です。 明治時代には、まだこの一帯は田畑だったようです。 さらに南下、直線630mで照ヶ丘矢田3丁目に信号、ここから東に300mに鎮座する式内社・中臣須牟地神社(なかとみすむち)の西を南下します。
 須牟地神社「スムチ(スムヂ)」とは、住吉津から東に延びていた古代の道である。 須牟地とは住道(すんぢ)が訛ったものだそうです。 この辺りはもう庚申街道は定かではありません。 神社、集落跡と思しき道を尋ねて歩きました。 

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 中臣須牟地神社から住道(すんじ)矢田の矢田東小学校の横道を南下、大和川堤防です。 堤防上から河内駿河屋羊羹の工場が見えます。 甘党の小生、工場に立ち寄り出来立て!の一口練羊羹を購入して食べ元気を付けて歩き続けます。 
 此処からは堤防沿いを東に300mで明治橋(旧川辺村)です。 南北に走る古市街道と合流します。此処で庚申街道は終点になります。
 
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● 歩行距離:四天王寺〜(約5.2km)〜 旧中野駅付近〜(約1.90km)〜明治橋  

 014.JPG - 65,751BYTES山阪神社(旧田辺村の鎮守)
 中井神社(牛頭天王社・主祭神素盞嗚尊)
 中野鍼灸院(中野降天鍼療院)
 庚申街道(旧中野駅付近)
 酒君塚古墳 (駒川・今川水系の首長墓 被葬者不詳)
 鷹合神社(素盞鳴尊神社)
 湯里住吉神社(湯谷島村・旧須牟地神社)
 中臣須牟地神社(藤原氏の先祖を祀る)  
上記地図を参考にして下さい。

 関連ページ→ 大阪市内ハイキング・庚申街道【305】
         大阪市内ハイキング・寂光寺〜淀川河川【303】
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