「お帰りなさい・・・・」
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電話のベルの音が微かに夢の中で聞こえる。誰だろう!夜中に。 夢うつつで受話器を取ると電話の向こうから賑やかな音が聞こえてくる・・・・
「もしもし あたし、みさきです」誰だろう! 思いだせない、朦朧(もうろう)とした意識の中で考える。いたずら電話? それとも飲み友達が飲んだ酒の勢いで掛けさしているのか。
「もしもし、ゆきちゃん 覚えてる・・・・」あぁっ 「ゆきちゃん」思い出した。
「ゆきちゃん 入院したの、○○○○病院の5階西病棟520号室」それだけ話すと一方的に電話が切れた。
何十年前になるだろう。当時、大阪には多くのアルサロの店があった。ゆきちゃんはその中のある店のホステスである。彼女が始めてアルバイトでテーブルに着いた最初の客が僕であった。某女子大学の学生でチャーミングな頭の回転の良い娘であった。 お互いに気があって、休みの日には時々昼間にデートするようになった。歴史に興味を持ち奈良の古い寺を一緒に歩いた。学校を卒業する頃には店では多くの固定客が付き水商売に頭角をあらわすようになっていた。 その後スナック「雪」を開店した。そしてその店の常連の一人になっていた。その頃に他の娘と結婚する事なった。休日のある日、依水園(いすいえん)の庭園を散策しながらお見合いをした事を話した。
「そう、おめでとう…」 少し寂しそうな顔を見せて言葉少なに言った。この日初めて彼女は店を女の子にまかせて休んだ。
「送っていくよ」彼女は店の近くのマンションに住んでいる。入り口で二人はこのまま別れ難かった。
「コーヒーでも飲んでいかない」誘われるまま部屋に入る。流し台にテーブル、きれいに片付けられた台所。その奥の部屋には寝室でベッドが置かれている。お互いじっと見つめる瞳、話す言葉も無くそのまま二人は熱いキスをした。
台所からカタカタと何かを切る音、シューシューとお湯の沸く音・・・・。
「アラ、眼が覚めたの」朝食を作りながら彼女はエプロン姿の初々しい姿でこちらを見た。
「何も無いのよね」テーブルを挟んで恥かしそうに、こちらを見つめる。新婚夫婦のようである。炊き立てのご飯、湯気の立ちのぼる味噌汁、焼きたての卵焼き。何を話したらよいのだろう。言葉も無く二人で朝食を食べた。
朝、仕事に行く時間である。 「行って来るよ」
「行ってらっしゃい」最初で最後の言葉。お互いをじっと見つめて言った。薄っすらと化粧をした頬に涙がひとすじ流れた。もう二度とここには帰ってこないだろう。 それから何日か後に彼女から結婚のお祝いとして高価な青磁の花瓶が送られてきた。結婚後はその花瓶を妻は飾る事も無く箱に入れたまま、他の花瓶と一緒に戸棚の奥に収められていた。店が繁盛するにつれて客としても僕の足が段々遠くなっていた。時々、電話で近況を話しする事があっても・・・・・・。
もう会わなくなってから十数年、遥かに遠い昔の思い出である。今、友達に僕の電話番号を教え、連絡してきたのは何故だろう。とりあえず病院に近くでガーベラの花束を買って見舞いに訪れた。病室に入ると、こちらを見た途端パッと昔のように可愛いい笑顔を見せて言った。
「お帰りなさい・・・・・」
「年を取ったでしょう」 化粧をしていない、少し青白い顔を見せて昔の少女の時のようにうれしそうに話しかけた。
「お互いさま」僕は言った。「手術をしたところでまだ起き上がれないの」「ゴメンナサイね」何の病気かはなにも言わずに明るくふるまっている。それについて僕もあえて聞かない。点滴している腕は白く細かった。彼女は昔のデートをしたときの楽しかった話ばかりを思い出しながら次から次へと語った。体に障るといけないので帰ろうとすると寂しそうに、
「もう少しお話をしたいの」
「また来るから・・・・」少し悲しそうな顔をして僕を見つめる瞳、それを背中に受けて病室を後にした。
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・・・・それから一週間後、電話がかかってきた。
「雪子さん五日前に亡くなったの、お葬式も済ませました・・・・・」白い雪の花びらが、はらはらと降る寒い日だった。今日も窓の外には白い雪が僕にほほ笑みかけるように舞っている。暖かい室内に眼を移すと、床の間には結婚祝いに彼女から貰った花瓶が久しぶりに箱から出されてそっと置かれていた。
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