エッセイ・・・オモイツクママ





   ◆ 戦後76年の思い出 【e100】


July 26, 2021 UP
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 戦後76年の思い出…模擬原子爆弾

● 私達が住むこの町に戦時中、模擬原子爆弾が投下されたのをご存知でしょうか。我が家から北約500mにある北田辺に模擬原子爆弾が投下されたのは1945年(昭和20年)7月26日9時26分。米軍のB29爆撃機が高度2万9千フィートから大阪市東住吉区・田辺小学校の北側に大型爆弾を一発だけ投下し、急反転して大阪湾を南へ抜けて行ったそうです。 

 その大型爆弾!!原子爆弾を模した5トン爆弾で原子爆弾投下の訓練だったそうです。そのときの被害は死者7人、重軽傷者73人、倒れた家485戸、被災者1645人。そして、この投下の11日後に広島に、14日後に長崎に原子爆弾が投下されました。これが原子爆弾だったら大阪は壊滅、そして私たちは爆心地近くに住んでいた事になります。 
 この爆撃で亡くなられた方のご子息が建てられた碑がこの地にあります。
 (模擬原爆追悼碑は令和元年(2019年)5月末マンション建設に伴い恩楽寺(田辺1-14-18)山門に移設)
■ 模擬原爆は長く歴史に埋もれた存在でした。原爆投下を成功させるため長崎に投下された原爆と同型、同重量の約5トンという巨大爆弾を大量の製造し日本への空襲の中で原爆投下の訓練をしたのです。こうした隠れた事実を広く知らしめ、広島・長崎の原爆投下を身近に感じて、この悲劇が繰りかえされないことを祈願して、田辺に模擬原爆が投下された日時に合わせて追悼式を行っています。   
 当時5歳だった私には空襲で自宅から東にある陸軍の大正飛行場(現・八尾空港)の空が、また北方向の大阪中心部の空が、赤く染まっているのをおぼろげながら記憶にあります。
 其の後、疎開命令が出て、ここも危険ということで母と兵庫・但馬の山村に疎開しました。田舎では空襲警報のサイレンの音もなく静かな、そして暑い単調な毎日が続きました。
 少しばかりの先祖の残された畑で取れた真っ赤なトマトを横の小川で洗って食べたり、川沿いにある「はらんきょう」(すもも)の実を木に登って採って食べたり……此処にはひと時の平和がありました。
 父(公務員)と12歳年長の兄は大阪の自宅に残り、学生である兄は国鉄城東線(現・JR大阪環状線)の京橋駅、森之宮駅間にある大阪陸軍造兵廠(兵器工廠)に学徒動員されていました。 終戦の前日 8月14日の大阪大空襲では約150機のB29爆撃機が大阪陸軍造兵廠を狙い数百個の1トン爆弾(一説には1トン爆弾575個を含む842個の爆弾)が投下され壊滅。 当時京橋駅には停車していた満員の上下2列車を含む駅舎は全滅、数百人が亡くなりました。
 兄は空襲の時、反対側の森之宮方面に逃げ、不通になった線路沿いに 9qの道を歩いて帰宅したそうです。 陸軍造兵廠跡は戦後永らく廃墟となっていましたが今はJR森之宮電車庫、大阪ビジネスパークになっています。 

 疎開先では暑い夏の日々が続いていました。ある日、山と山の谷間の空を見上げると澄んだ青空の遥か上空を大型の航空機(B29 !)が一機、音もなく日本海の方に飛んで行くのを今は亡き母と見上げたのを覚えています。お母さん、もう戦争は終わったのでしょうか。
 
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● 追記:戦時中、空襲の激しかった大阪・八尾の大正飛行場は戦後、昭和20年(1945年)米軍に接収され、その後 阪神飛行場と改称される。
 昭和29年米軍から日本政府に返還され、昭和31年から八尾飛行場として運用が開始されました。この滑走路は戦時中には多くの若人が戦闘機に乗って日本の防衛・迎撃に離陸して行ったのです。
 この八尾飛行場(現・八尾空港)の滑走路を使って自分は戦後、パイロット免許を得る為の操縦訓練を受けました。飛行機の操縦を指導して頂いた教官はゼロ戦の元パイロットでした。そしてもう一人は皮肉にも米国人(英会話をした初めての外国人)で、この二人に操縦を習い、小型飛行機のライセンス(自家用操縦士技能証明書、通信士技能証明、航空無線通信士)を習得しました。  

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