〇 パイロット免許習得までの操縦訓練体験記


  @自家用操縦士免許・・・学科試験

 昭和41年(1966年)の暑い夏のとある日、朝日新聞に一つの記事が掲載されていました。大阪の八尾空港で戦後の日本の空を再び自由に飛行できるようになり、大空を自由に飛ぶ人たちと、その魅力についての記事が掲載されていました。 
 日本の空は戦後6年間あまりGHQの命令による航空禁止令で航空活動が一切禁止されていました。1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が締結されて日本国が主権国家になり、1952年7月15日航空法が交付施行されると、戦前のパイロットも新航空法の免許を受けて初めて日本の空を飛べるようになったようです。

 記事には元零戦のパイロットや米国人の宣教師がクラブを作り、遊覧飛行や飛行訓練の様子が掲載されていました。その頃は自分も仕事が安定して、友人にはゴルフをする人も多かったのですが、なにか人が余りしない事はないかと思っていました。
 そこにこの新聞を読んで天気の良い7月の或る日、八尾空港にぶらっと足を運んだのがきっかけでした。結果的には空を散歩することを楽しみながら自家用操縦士免許を取りました。事業用は初めから視力が弱かったので求めていませんでした。

 空港は返還されるまでは阪神飛行場として米軍に接収されていました。
返還後の1956年(昭和31年)には八尾飛行場として設置が告示され、1960年 (昭和35年) 7月民間飛行場として供用開始、1961年(昭和36年)5月には第2種空港に指定され空港として整備されます。

 これは懐かしき日々の小型飛行機(軽飛行機)の自家用操縦士(パイロット)免許取得までの操縦訓練の体験記を思い出に記録したものです。
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 このクラブは飛行訓練学校と違って会員制の飛行クラブで好きな時に飛行する事が出来、それぞれに会員がいつも集っていました。 初めて遊覧飛行をして上空から見る景色の素晴らしい事、ジオラマのように家々が並び、道路や鉄道の線路、公園が、そして遠くには大阪湾の青い海が広がっていました。
 その中に一本の川筋、小さな我が家を見つけその上空を旋回、30分程度の遊覧飛行でしたが全く揺れずに感激、これからも時々飛んでみたい魅力、その誘惑に捉われました。 

 料金は回数券(前払い)を買うと遊覧飛行より訓練費用のほうが割り引きもあって安くなるとの事で早速、指定病院で航空身体検査(内科、外科、精神および神経系、眼科・・・・)を受け、航空機操縦訓練許可証を航空局に申請しました。 
  それからは天気の晴れた良い日には空港に出向き飛行、恐る恐る操縦桿も初めて握り、自動車の運転とは又違った何にも例えようの無いない体験。 最初は地上の視界の良い高翼のセスナ172という4人乗りの軽飛行機で飛びました。
 
 離着陸は教官と一緒に並んでいる操縦桿を握り(操縦桿はWになっていてどちらも同じように操作ができる)慣れてくると1人で操縦。 大阪、奈良、京都と空からの散歩を楽しみました。 元零戦パイロットというK氏は豪快な人で少々荒い操縦でも優しく、私が着陸の際に、スムースに行かず高い位置から操縦桿を早く引きすぎてストンと失速、飛行機が地上で二度三度バウンド、脚が曲がってしまうぞと脅かされたりもしました。今から思えばなんと荒い操縦でしょうか。これはゼロ戦じゃないんだ〜(汗)

 その内にいよいよ旋回、蛇行飛行の訓練、これは身体にきつくて直ぐに気分が悪くなり着陸を余儀なくされました。 特に急旋回は体に荷重がかかり……お腹の底まで。乗り物に弱い自分はすぐに酔うのです。自動車は他人の運転だと30分位、バスは前方の座席で、船はほとんどダメでした。
 こんな私が無謀にも空の魅力に取り付かれ航空機の操縦を始めることになりました。 こんな事が何回も、最初の頃の飛行記録は30分程度と短時間がよく記録されています。(飛行料金は1分単位で計算されます) 

 それでも離着陸が慣れてきた天気の良い日、教官と二回離着陸(Touch And Go)すると、突然一人での飛行を命じられました。 いよいよ単独飛行(ソロ・フライト)の時が来たのです。
 一人で無事に着陸できるのだろうか、心臓がドキドキします。横に座っていた教官が飛行機から降りるといよいよ機内は初めて自分が一人。何時ものようにエンジンの回転を上げると機体は軽やかにスムースに離陸、なんと機体の軽い事だろうか!
 いつもと違って直ぐにふわりと地面を離れ、全く今までと違う感覚。 初めて一人で空に飛んだ瞬間でした。
 飛行場の滑走路横でK教官が心配そうに見上げていました。 飛行場の場周経路(Airfield Traffic Pattern)を飛行して離着陸を二回繰り返してフルストップ。
 この単独飛行で飛行機を操縦することに大きな自信がつきました。 この時までの全飛行時間は30時間あまりでした。よほど運動神経が鈍かったのでしょうか。(悲)

 よし、小型飛行機の操縦免許(自家用操縦士技能証明書)を取ろう。PLOTTER.JPG - 217,687BYTESそして各地の飛行場を巡って見ようと決意も新たに。
 空を飛ぶ航空機は自動車と違って飛行場周辺では航空交通管制がされていて、常に無線で管制塔(タワー)と交信します。
 それには郵政省(総務省)の通信士の免許が必要になります。早速航空級無線通信士の試験に挑戦する事に。既に旧無線通信士(船舶)の免許を持っていたので免除科目もありましたが難関は英語でした、しかし問題集もあり高校程度の独解力で無事に合格しました。

 操縦もだんだんと難しくなり、急旋回、失速時の回復、風の強弱、風向等天候にかかわらず正確な離着陸が要求されます。幸いにも八尾空港は横風用の滑走路もあり、管制塔にリクエストして強い横風時の離着陸を練習することも出来ました。また滑走路には夜間着陸用の照明設備があり、日没後の着陸も体験、自家用操縦免許には必要としない曲技(アクロバット)飛行(FA200-富士重工)も体験しました。一般の飛行学校と違って好きな時間に好きなように練習が出来るので非常に楽しかったです。もちろん免許を取るまでにはそれだけ多くの時間と訓練費を必要としました。

 飛行機での酔いも段々と少なくなり、単独飛行の時は結構緊張していて操縦している時は酔う暇もありません。 しかし教官の操縦で横に座ってのんびりしていると、急旋回の連続では気分が悪くなります。
 飛行操縦訓練は天気の良い日を選んで飛んでいましたがスピードが速いので小さな雨雲の下を飛んだ時など急に雨がスコールのように。 又 真夏の前方にそびえ立つ大きな積乱雲、これを越えようと小さなヒコーキで喘ぎながら雲のピークを避け飛び越えると前方は一面真っ白な雲の絨毯。上空は真っ青、足下は真っ白な雲、この雲の上をふわりふわりと歩きたいよな〜!
 雲の上に近づくと機体の脚を白い雲がものすごいスピードでかすめていきます。まるで新雪の上をスキーで滑っているようです。

 ある日、米国人のT教官と失速訓練の時、失速中誤って方向舵(ラダー)を深く踏み込み錐揉み(スピン)に入り(この機体は数回錐揉みを続けると回復不可能になり墜落する)、回復の訓練は受けていなかった自分。
 T教官あわてて I have control・・・・・操縦桿を握り、ものすごい早口の英語で・・・・・全く独解力出来ず意味不明(たぶん怒られたのでしょうね!)。

 楽しいことも…他の練習生と高知空港に鰹のたたきを食べに。またある時は、夕方から米子空港に飛び、そのままタクシーで皆生温泉に一泊。 そのときは普段着の手ぶらで夏、暑いので腰にタオル姿(学校ではないので制服は無い)。 旅館では予約もないので断わられたり、翌朝は早々に八尾に帰港。 又、操縦訓練後は時には帰りに酒の好きなK教官と居酒屋で楽しんだりしました。

 飛行時間も40時間を過ぎると学科試験の受験資格が出来ます。気象・工学・法規・通信・航法の5科目を…ほとんど問題集を独力で。(ここが訓練学校と違う所です)自家用操縦士の学科試験はそれほど困難ではなく、解説書に過去の問題集もあり、全科目を一回で合格しました。

 いよいよ本格的に航法の訓練が始まりました。白浜、徳島、など教官から指示されるとその日の航路、風向、風速、飛行時間等、飛行計画(フライトプラン)を作成提出、航法の訓練飛行になります。
                 ・・・・・・(次は実技試験に続く)
(続…実技試験) パイロット免許取得記-A

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